石山修武が書いた「はじめに」は凄い。
モヤモヤと思っていたことをいってくれてスカッとする。
↓抜粋
『私たちは身の廻りの環境、衣食住の全てを買い求める事に慣れすぎました。大量生産大量消費の世界に、目的も無く漂流しています。目的とは、再びいいますが自己表現すなわち自分を全うしようとする意思のことです。
セルフビルドは身の廻りの環境を作る歴然たる方法です。しかしながら、今の私たちが漂流しているグローバライゼーション=市場至上主義の環境像、具体的には、都市、建築、住宅、部屋、そして、生活の様式、それに属する各種プロダクトの世界、その姿、形と比較すればココに収集した多くの事例はあまりにもかけ離れて見えてしまうのも確かなことです。
あまりにもかけ離れて見えてしまうと、奇妙なユートピアの主義の産物として簡単に片付けられかねない。〜それは本意ではありません。そのように簡単に整理しようとするのも実は想像力じたいの消費社会化が原因なのですがね。
〜今、現在に突き進んできた近代特有の性格は、良き時代のアメリカの精神の代弁者、バックミンスター・フラーがかって総合的に、しかしあまりにも詩的に批判し続けたように社会組織の専門分化への回路の強化でした。その強化のために他のヴィジョン、方法は捨て去られてきた。本当の多様性は市場にとって効率が悪いからです。そのますます標準化された回路を私たちは人間としても、生活様式として考えてみても部品として処理され流通されている。つまり我々の体の表現として生活像も見事に標準化されている。
大量消費大量生産の生活スタイルはすでにイデオロギー化しています。誰もが逃れられない教条として繰り返し繰り返しつくり続けられています。その考え方そのものが、もうコワレ、大量消費教という宗教のようなものなのです。』
↑抜粋
ありとあらゆるものが等価交換可能なものに変換され、ものの価値を全て数値化し、具象的なものが、どんどん抽象化されるという近代の流れに対し、逆の流をつくろうとする内藤廣の考え方に通じる。
自分はこんなたいそれたことは言えないが、できるだけこの消費のサイクルからぬけでた生活を送りたい。自分の職場は同業者の中でも割とこのサイクルからは外れた仕事をしている。転職先に選んだのは、そういうところもあるかもしれない。「建築」はそれをとりまくもので出来ていると言われたりする。「メディア」、「ファッション」、「不動産」そういったものよりも「生活」と深く結びついた建築をしている気がする。
なんでも等価交換できるという考え方をする人は、養老孟司のいう都市化された人間に似ている。仕事では必要なことだけど、日々の生活ではそれはいいとは言えないかもしれない。